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上海蟹の思い出

小学校5、6年の頃の思い出である。兄貴分の中学生と釣りに行こうという話になり、自転車を借りて川へ出かけた。おそらく豊平川だったと思う。当時、餌はうどん粉を色粉で赤くしたもので、それで鯉を釣ろうというのだ。釣針に赤い餌をつけてウキを垂らすとしばらくしてピクピクッと手応えがあり、スッと上げるとなんと魚ではなく、蟹が釣れた。なんじゃこれは! と見ると爪に毛が生えている。今思えばモクズガニ、上海蟹と同じ仲間だ。もちろん当時食べられる蟹とは知らず、それでも沢山釣れるのが子供心に嬉しくて持ち帰った記憶がある。ちなみに、鯉はまったく釣れなかった。

料理の世界に入った15歳の秋のこと。10月に入ると、蟹を横詰めに並べた籠が入荷してくる。上海蟹との再会である。蟹は藁で爪を固定し、十文字に結ばれている。タワシに少量の塩をつけて蟹をゴシゴシ洗う。10月になれば水道水は冷たく、そのうえ洗っている間に藁がゆるみ、ハサミで一撃される。「痛ぇ!」と手を振った時の痛さといったら、指がもげたかと思うほどである。洗った蟹のふんどしに塩をふり、醤油ベースに白酒、山椒、陳皮、紹興酒などを合わせて作ったタレを入れた特大寸胴鍋にどんどん漬けていく。生きた蟹にお酒と醤油たっぷりのタレを飲ませること1週間、味噌はそのエキスが染みて真っ黒になり、卵はきれいなオレンジ色になる。これが皆さんご存じの「酔っ払い蟹」。

もうひとつ、上海蟹の季節になると大量の蟹粉醤を作る。アイドルタイム中に、二十数人が揃い一人50杯の蟹を掃除する。蟹の肉、卵、味噌を分けるのである。「高いから絶対食べちゃダメだぞ!」と必ず念押しされる。食べるなと言われると隠れて味を見たいものである。二十数人食べない人間は一人もなく、顔をよく見ると口の周りにオレンジ色の味噌の跡が残っている。大変な手間がかかる作業であったが、今となっては上海蟹の美味しさを知った懐かしい想い出である。

2018年秋に『家庭画報』の取材で上海を訪れた。陽澄湖は20回以上訪ねているが、この時はコーディネーター趙さんの計らいでボートに乗せてもらった。湖の真ん中くらいまで行くと橋桁のようなところに小屋がある。小屋のオーナーが満面の笑みで迎えてくれ、入れば円卓の上に様々な料理が所狭しと並んでいる。キッチンがあるわけでもなく、ガス台ひとつで10種類もの料理を作ってしまう中国の料理人の素晴らしさに驚くばかりである。料理は美味い、酒も美味い、中国人のもてなしに感激していると、ガス台の上にせいろをのせ、特大の上海蟹を蒸し始めた。日本に入ってくる蟹は150〜180gが通常だが、そこでは300gはあろうかという大きさで、「皇帝蟹」と呼ばれるそうだ。待つこと20分、緑っぽい蟹が鮮やかなオレンジ色になり、その香りといったら! ふんどしからパカッと開けた時の卵の大きさ、膏、今まで食べてきた上海蟹とは別物である。陽澄湖の上での素晴らしいもてなしと皇帝蟹、料理人人生の中で忘れられない味のひとつになった。

上海蟹は、人を笑顔にし、無口にさせる秋の風物である。

「味の手帖」(2020年10月号掲載)
イラスト=藤枝リュウジ

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